2011年4月26日火曜日

野焼きのあと先-大震災に文明のあり方を思う-

<野を焼いて心の焔なお鎮まらず>   再開して8回目になる野焼き。今年は、東日本大震災の「鎮魂と復興の祈り」を込めて行った。当初予定の4月16日午前10位時半、それまでの青空が急転雨になってしまった。涙雨だったのだろうか。翌17日は、参加した老若男女81名の皆の思いかなってか絶好の野焼き日和となった。

















さて、此度の大震災のこと。想定外だったと言う東電・政府・関係者に対し、想定されていたという人も。大地震と津波だけで原発事故がなかったら、これほどまでの事態にはならなかった。
では、原発は何故必要になったのか。人類がはびこりすぎたからではないのか。快適・便利を追い求め、余剰価値を追求し続けてきた。緑の大地はみるみる失われ、人口は激増し、石油、石炭、水力だけでは賄いきれなくなった。つまり、地球という生命体の環境容量を超えて人類が膨張し過ぎてしまった。そこで将来をみこして、つまり、自然を収奪し人類だけが繁栄し続けるという前提のもとに、CO2を出さない原発に頼った。そして今、人が作った文明の利器を人が制御出来ない事態に直面している。
此度の事故は天災であり、人災でもある。人類は今、有史以来の文明のあり方を問われている。つまり、環境容量を超えない暮らしのあり方につき再考を促されている。人間以外にも失われた数えきれないほどの生き物たちの命と棲みかをも回復し、共存できる道。暮らしの価値基準を見直し、GNHを国是とするブータンや環境立国を旨とするコスタリカなどの“文明先進国”に米欧日の“経済先進国”が学ぶ時ではないか。
小生が社会人になった1964年、既に3種の神器が揃っていて暮らしは充分に便利・快適であった。それ以降はすべて『余剰』であり、その結果『環境容量』を超えてしまった。本質的問題は、人類が環境容量の範囲内で如何にして持続的な暮らしの有り様を再構築するかだ。それが後世、人類が善玉キーストーン種として他の多くの生き物仲間たちから尊敬される存在になり得るか否かを左右する。





<世界中みんなはらから桜咲く>  汚染された野菜や魚の存在について思うこと。消費者の食の安全をどう確保するか、そして農業や漁業現場の再生対策は勿論急がなければならない。だがしかし、津波に破壊された生態系や、汚染され打ち捨てられる破目になった野菜や魚介類の命が不憫だ可哀そうだ、と報じたり言ったりするメデイアも役人も学者も宗教者もいないのは一体どうしたことだろうか? 我が国が、生き物の命のつながりの大切さを考える国際会議・COP10を主催したのは昨年10月のこと。今も昔も洋の東西も問わず、人類が毎日食卓にのせて頂いているのは、それら自然の生き物たちの命だというのに・・・。
食事の度に、その命を「いただきます」と言う。そのたびに、限りある自然の生き物の命、資源量、環境容量に思いをいたしたい。そこから、あるべき暮らしの姿、文明の有りようが見えてくる。

〈末黒野に涅槃の境地思ひ見ゆ> 


 『涅槃』とは火が消えた状態。『煩悩』即ち、慾やむさぼり、おごり、怒りがなくなった状態のこと。多少の慾はもってもいいが『小慾知足』たるべしという、2500年前からの釈迦の教えはどこにいってしまったのか。文明のあり方が再び問われている今こそ、身の丈に合った暮らしの有りようを再構築しなければならない。言うまでもなく「身の丈」とは言うまでもなく、地球の身の丈、つまり地球という生命体の環境容量のことである。

<「傲慢」の世紀の果ての枯野かな> 1999年12月。12年前の拙句をもって筆をおきたい。

チェルノブイル原発事故から25年目の今日、2011年4月26日記す           (清水)

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