2014年7月7日月曜日

2014年度第1回東京楽習会「利根運河―その歴史と役割を学ぶ」開催報告

6月28日に第一回東京楽習会を利根運河で開催しました。参加者九名は午前十時に東武野田線の「運河」駅に集合。丁度、毎月一回開催されるイベント「うんがいい!朝市」が開催されている運河水辺公園を散策しながら、流山市の利根運河交流館を訪ね、中島昭治さんよりお話をいただきました。

利根運河交流館は、国土交通省の江戸川河川事務所利根運河出張所の建物の一室にあります。流山市の施設ですが、NPO法人「コミュネット流山」が交流館を運営しています。中島さんはNPOのメンバーで、以前は交流館の館長をつとめていた方です。以下はお話の要約です。
 

○利根運河は、利根川と江戸川を結ぶ運河で、総延長8.5キロメートル。野田市、流山市、柏市の三市を流れています。利根運河の竣工は今から124年前の明治23年6月18日です。竣工式には当時の山縣有朋総理大臣も参列しました。
○江戸のはじめ、江戸湾に直接そそいでいた利根川の流れを常陸川と繋げて銚子から太平洋へと導く「利根川東遷」事業が、徳川家康によって進められました。これにより、東北地方からのお米や海産物などが、船の難所である鹿島灘や、沿岸に浅瀬の多い江戸湾を通ることなく、利根川、江戸川を経由して江戸に運び込む水路が開発されました。そして利根川の水運は、百万都市江戸の賑わいとともに大きく発展していったのです。
○この銚子と江戸を結ぶ航路は、明治に入っても高瀬舟などが盛んに往来していました。しかし、上流からの土砂の堆積などで船の運航がままならないこともあり、また時間の短縮も求められたことから、銚子方面から関宿で江戸川に入る東京湾までの航路をバイパスするための運河開削が構想されるようになりました。これが「利根運河」で、当初は茨城県側からの働きかけにより国の事業として計画がはじまりましたが、国が手を引いたため、民間の力で運河を開削することとなりました。そして明治20年に利根運河株式会社が設立され、一株50円の株式八千株、40万円の資本をもとに明治21年に工事が始まりました。
○計画の段階から関わっていたお雇い外国人のオランダ人土木技師・ムルデルは、運河沿いに居を構えて工事を監督しました。そして、二年間の工期と延べ220万人の労働者の手により運河は完成しました。総工費は57万円、今日の約150億円に相当するとのことです。主に近隣の農民が農閑期を中心に工事に携わりましたが、囚人なども労働に従事しました。
○完成した利根運河の川幅は18メートルあり、高瀬舟や外輪の蒸気船など、年間三万隻もの船が運航しました。
○しかし、運河が航路として栄えたのは約20年ほどで、鉄道の開設や道路網の整備により船運は次第に衰退してゆきました。そして昭和16年の大水害で大きな被害を受けると、利根運河は国に売却され会社は閉鎖となりました。
○こうして運河としての役割は終焉を迎えましたが、その周囲は里山や田園など豊かな自然が残されとおり、運河をその歴史とともに後世に残してゆこうとの機運が生まれました。利根運河は経済産業省より、近代化産業遺産に認定されています。
○運河が完成した当初は、江戸川から利根川へと流れていましたが、現在は逆に流れています。但し、利根川側の水門は閉ざされているため運河には周辺からの排水が流れているのみで、船が往来していた時代に比べて、水量は極端に少なくなっています。


一行はその後、利根運河を江戸川方向へ約一キロほど散策、河畔にある蔵元「窪田酒造」で地酒を購入したり、運河所縁の「利根運河大師」にお参りしたのち、地元の老舗「割烹新川」で昼食をとり本年度第一回の楽習会は終了しました。
 全長8.5キロメートルの利根運河周辺には他にも見どころが沢山あります。皆様も一度お出かけください。利根運河に関しては、下記もご参照ください。
利根運河エコパーク http://www.ktr.mlit.go.jp/edogawa/edogawa00183.html
利根運河の四季 http://www.ne.jp/asahi/noda/tora/index.htm                                   
 
 
(文責 稲)
 
 
 

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