2015年4月6日月曜日

総会セミナー報告「ゆめは茅野を~琵琶湖の西の里山報告」


ゆめは茅野を~琵琶湖の西の里山報告」

           講師:海老沢秀夫氏(NPO法人麻生里山センター理事)

 

 講師は当塾の元幹事で、今は滋賀県琵琶湖西岸の高島市朽木地区で暮らしておられる。東京を離れてから2年間、地区の内外における活動の展開について、興味深い報告を受けた。

 

 

 朽木地区は、2005年に周辺の5町1村が合併して高島市となるまでは、朽木村という一つの自治体だった。車で琵琶湖まで約30分かかる山間の地であるが、若狭湾に面した福井県小浜市まで約45分、京都市街までは1時間半ほどの距離にある。かつては、若狭から京都まで荷を運んだ鯖街道の要衝として栄え、歴史上は海と山の文化が融合し合う地でもあった場所だ。

ここには、かつて講師が勤務していた朝日新聞社の森林環境基地「朝日の森」が設置されていた。基地の閉鎖に伴って市へ移管された森は現在、「森林公園・くつきの森」として市民に親しまれている。定年退職により東京での勤務を終えて朽木に帰った講師は、森の管理運営を市から委託された麻生里山センターの理事として、再びこの面積約150haの森を活動拠点とするようになった。

 朽木地区の植物相の特徴は、暖温帯と冷温帯の境界付近に位置するという立地から、日本海側と太平洋側の要素が入り混じった種の多様性の高さにある。ウラジロガシ、ヤブツバキ、モミなど暖かい地域の木と、ブナやシナノキ、ナナカマドなど寒い地域の木が一緒に生えている景観は、他の地域ではなかなか見られない。

かつては、こうした野山が薪炭林(カナギ山)、アカマツ林(マツ山)、スギ林(天然山)、肥料用採草地(ホトラ山)、ススキ草原(カヤバシ)といった用途ごとに場所を分けて利用されていた。くつきの森も、古い航空写真などを見ると、多くが草原として利用されていたようだ。やがて、草原や周辺農地にはスギが植林されるようになり、今では十分な手入れの行き届かないまま放置されたスギ人工林が目立つようになっている。くつきの森では、こうした人工林をもう一度コナラやクヌギの雑木林に、あるいは草原に戻すことを目標に、森の再生、利用にも取り組んでいるという。

ただ、全国的に問題となっているシカによる植物の食害は、こうした取り組みの阻害要因として無視できない状態にある。人工林の伐採跡地には、明るい環境を求める多くの植物が入ってくるが、食害を受けた結果として、シカが好まないアセビやワラビ、ススキなどの植物ばかりが残っている。本来豊かな植物相が成立する土地に、単調な植物相が現れてしまうのは、生態系被害と呼んでも間違いではないだろう。樹木も、明るい環境を好む陽樹の中でシカが食べない種類が優占的に繁茂しており、特に中国原産の外来種であるニワウルシが目立つようになっている。

こんな中で、講師の言葉を借りれば、地区の人々はみな今や「シカ戦争」に「徴兵」されている状態にある。被害対策として農地にフェンスを張るようになったが、資材は行政から提供されても設置や日常の管理は全て集落ごとにやらねばならない。講師が住む戸数10戸の小さな集落では、80歳代の古老を先頭に協力し合って作業を進めている。また、集落の各戸には組頭や井係、会計などの仕事が回ってくるほか、用水路の掃除や水道水源の管理なども協力して実施している。そんな中で、集落内の耕作放棄地を野焼きしたり、刈り取った茅を雪囲いや箒に利用したりと、新しい動きを演出することに、ちょっとした楽しみを感じているのが、講師の日常であるようだ。

 

このほか、2年前に東京から朽木まで中山道を歩いて戻った講師がこだわっているのが、各地に残された古い道をたどる活動である。NPOで働く仲間と結成した「朽木フットパス研究会」は、琵琶湖一周をはじめ、村内の古道や日本海側と太平洋側とを隔てる分水嶺の道の踏破などに挑戦を続けている。その延長線上の活動として、村内にある「信長の隠れ岩」など伝説の地を訪ねる散歩マップの整備にも乗り出したそうだ。さらには四国八十八カ所、熊野古道の巡礼も手掛け始めており、今後は韓国・済州島オルレ(「家に帰る細い道」の意味)のようなコースをめぐる海外遠征も目指すのだという。

「森林塾青水と藤原でやったことをなぞっているだけ」と謙遜して語った講師ではあったが、幅広く地域に貢献する活動を2年のうちに積み重ねてきた実践報告に、多くの参加者が驚きを覚えながら聞き入った。(まとめ・米山正寛)
 
                                             文責 草野

 

0 件のコメント:

コメントを投稿