2011年11月24日木曜日

『オンパク』オープニングは上ノ原の茅刈り!

-藤原小中学校「育成会」の有志9名も参加-
群馬県初の温泉泊覧会『オンパク』inみなかみ町が11月16日から12月11日間の予定で始まった。『オンパク』とは、地元の人が地元の人を案内して、みんなが自分が住む町を好きになるための小さなプログラムの集まり。町中のみんなで知恵を出し合って作ったプログラム28の皮切りはなんと、上ノ原「入会の森」の茅刈りだった。

当日・16日朝は、まだ前夜の雪が残り開催が危ぶまれたが、町内各地から集まった参加者40名余のやる気につられてお日様が笑顔を出してくれ、予定通りの開催となった。実行委員長・深津卓也氏(辰巳館社長・森林塾青水の協賛会員)の開会挨拶「これまでのイベントは首都圏の観光客が対象だった。しかし、町の宝物を住民が知れば、町への愛着が高まり、町の活性化につながる」が心に強く響いた。

先ずは、当塾の茅刈りイベントと同様、鎌砥ぎ実習から開始。あとは、茅場のあちこちに散らばって、地元の久さん、親男さん、續さんの手とり足とりのご指導のもと刈り取りと結束の作業。吉野一幸さん(当塾・地元幹事)の呼びかけに応じて参加した藤原小中学校「育成会」のヤングパパ・ママさん9人や並木荘の秀徳さんご夫妻たち地元・藤原衆も、初めての茅刈りに夢中になって鎌をふるっていた。

終了後は、遅れて駆けつけた岸町長ともども広場の焚火を囲み、焼きリンゴや原木栽培のナメコ汁に和気あいあい舌鼓を打った。遠望する谷川岳の冠雪が、いつにもまして美しく爽やかだった。(2011.11.18 清水、記)

2011年11月8日火曜日

2011年度の茅刈検定で茅刈士補2名誕生

今回で2回目となる2011年度の茅刈検定が、10月22日、「コモンズ村ふじわら」の茅刈の中のプログラムとして行われました。当日検定を希望したのは4名、検定者、林三郎師、アシスタント草野のもと検定に臨みました。 
まず、師のカマ砥ぎ、茅刈を見て、それぞれがまだ初霜もない暖かすぎる気温の中、1時間の茅刈となりました。今年の茅は生育があまり芳しくなく、キツネ茅や雑草が多く、それらの除去に苦労しながら束、そしてボッチを作り上げていきます。検定項目は、カマの使い方や腰つきなどの安全面、カマの音、束やボッチの大きさ、形、結束の仕方、1時間あたりのボッチ数など17の項目で判定されます(詳細は昨年の報告をご覧ください)。 
その結果、当会の正会員である初挑戦の川端さんと再挑戦の安楽顧問がめでたく茅刈士補に認定されました。 また、他の2名の方は茅刈士心得と認定され、後日、別添の町田検定委員長の認定書が送られました。これで茅刈士補は昨年3名に加えて5名になりました。 
会員の中から茅刈士補が、3名になりました。 お二人ともおめでとうございました。   
目指せ 茅刈士!!



茅刈検定事務局 草野

2011年10月27日木曜日

嬉しい事づくめの今年の茅刈り

上ノ原の茅場の再生・活用に取り組んで8年目の今年。毎年、新たな試みと感動の歴史を刻んできたが、今年は格別嬉しい出来事が重なった。先ず7月7日、昨秋刈り取り諏訪神社屋根替え用にストックしていたカヤ366束が、会津若松の東日本大震災仮設住宅の建設現場に向かった。日本茅葺文化協会を通じて、板倉構法による建設を進める佐久間建設工業に寄贈、住宅17棟36戸の屋根用断熱材として利用され、既に大熊町ほかから被災者の皆さんが入居、新しい暮らしの場になっている。

有機野菜・果物のマルチ材・肥料としての利用と共に、従来の茅葺き文化財の屋根材としての用途に加え、新たな利用の道が開かれることになったのだ。
そして、10月23日~24日。当塾主催のボランテイア茅刈り作業に、これまでにない新たな担い手が参加してくれた。茨城県つくば市から、上野弥智代理事ご引率の茅葺文化協会・里山建築研究所・筑波大生グループの皆さん8名。安藤先生も夜中の9時過ぎ、出張先徳島からトンボ帰りして合流。さらに福島から、佐久間建設の遠藤部長と武藤さん。高速道路を乗り継ぎ5時間もかけて馳せ参じて下さった。いずれも、融通してもらったカヤの恩を自分たちで刈って返したい、という強いお気持ちからのことであった。カヤがとりもつ利根川つながりのご縁、そして大震災つながりの心の絆、といってよかろう。お迎えした地元やみなかみ町役場の皆さんを含め、参加総勢52名の熱意を十二神様(山の神様)が聞き届けてくれたのであろう、大方の予報を覆して二日間とも好天に恵まれ、茅場に鎌をふるう心地良い音と子どもたちの歓声が木霊した。

刈り取ったカヤの総量は350束。奇しくも、仮設住宅用にお届けしたのとほぼ同量! これまで同様、全量を地元藤原区に寄贈、諏訪神社の茅葺き屋根替え用に使っていただければと思っている。
終わって二日後の25日、筑波大生・何銀春さん(中国留学生・世界遺産専攻)から嬉しいお便りをいただいた。「二日間の短い間ですが、感動させたことが沢山あります。地元の人と全国からの皆さんは全力を挙げて茅刈りの活動を参加しています。このような精神を持って、文化財を守っています。これは、日本の文化財をよく保存できる重要な原因と考えています。清水さんから『飲水思源』の言葉もよく覚えています。(中略) 最後に、清水さんと地元の皆さんのご指導を改まって感謝しております。」(原文のまま)

『飲水思源』は当塾の合言葉。井戸を掘ってくれた人の恩を忘れてはならない、という中国由来の訓え。ご多用の中、駆けつけて下さった安藤先生、遠藤部長始め遠来の皆さま、ご指導ご協力いただいた地元・町お役場の皆さまに感謝し、今回のご縁をとりもって下さった上野理事、更には理事との出会いの場を作っていただいた全国草原再生ネットワーク・高橋佳孝会長に、改めて『飲水思源』を以てお礼言上申し上げたい。(清水、記)

2011年9月12日月曜日

2011第一回東京楽習会開催


本年度第一回目の東京楽習会が、9月4日(日)午前10時より、中央区の「女性センターブーケ21」視聴覚室を会場に、会員会友他14名が参加して開催されました。この日の講師は、本会の草野洋塾頭です。塾頭は「ミズナラ林の保全と活用」をテーマとして、自らの林業(山)との出会いから講義をはじめました。草野塾頭は熊本県葦北郡の山村に生まれ、林業を営む父親の背中を見ながら育ったということです。生まれてすぐに森林・林業と出会った塾頭は、やがて農林技官として林野庁に入り、以来、40年にわたり、森林行政の最先端で勤務をされてこられました。赴任地は九州・大崩山、屋久島、木曾・赤沢、信州上小地方・伊那遠山郷、利根川水源、北海道などの国内のみならず、フィリピン・ルソン島のパンタパンガンにも、日本による海外支援のスタッフとして赴任しました。現地では、スペイン統治時代に禿山となった一万ヘクタールに及ぶ地域の森林復元に取り組み、森林再生のための技術的基盤と成果を現地に残してこられました。
 そうした豊富な経験をもとに、草野塾頭は上の原二次林の保全と活用について解説しました。まず、現在の二次林をカラマツ造林地に若齢のカエデ類が優先している「二次林下部」、成熟したミズナラが優先する「二次林上部」、ススキ草原と接する「林縁部移行帯・流路沿い低木部」の3タイプに区分した上で、これからの新たな目的と取り扱いとして、ススキ草原と相まった「生物多様性を維持・増進するための取り扱い」、森の力と暮らしとのかかわりを伝える「自然環境教育・自然ふれあい等のフィールドとしての取り扱い」、藤原地区のペンション等に「小木質エネルギー資材と山の恵みを供給し地域経済に貢献する取り扱い」の3点を掲げました。上の原のススキ草原は、既に火入れと茅刈りが復活し、草原の管理と萱の利用について道筋が見えつつありますが、ミズナラ二次林の保全と活用は、本会が次のステップに進んでゆくための重要な課題と言えます。草野塾頭は最後に、「先人栽植後人亦涼」という言葉を引用して、講義を終えました。
 質疑応答の後、最後に清水塾長が、上の原を舞台とする現代版入会慣行や流域コモンズの実現に向けて、それぞれの参画を呼び掛け、楽習会を閉じました。(幹事・稲)

2011年8月12日金曜日

また一つ、ススキの新たな利用の道が!

-元・茅場の地域循環型・持続的利用の一環として-

2011年8月6日午後~7日午前。早稲田環境塾・当塾のコラボ合宿参加者22名が阿部惣一郎、林久の両長老ご指導のもと、初めての“青刈り”にチャレンジした。

(写真①、②)

2日間の成果は、およそ2トン車1台分。うち、8割見当を桃季館(江口所長・新治地区)のトラックに積み込んだ。
(写真③)
 ブルーベリー栽培用のマルチとして使っていただく約束だ。残りは、久さんの軽トラに積み込んで久保の畑に運ぶこと2往復。
(写真④)こちらは、半年間寝かしながら鋤き返し、来春には野菜畑の肥料になる。

これまで、上ノ原のススキの用途は、群馬県下4棟の茅葺重要文化財と地元・諏訪神社の屋根材だけだった。そこへ、この7月、福島県の仮設住宅(板倉構法)の屋根用断熱材としての用途が加わった。 加えて、この度のマルチ材ならびに肥料としての利用が加わった次第。草の「利用」を進めることがより良い草原の「管理」につながる。しかも、地域循環型・持続的利用のモデルケースと言ってよかろう。その意味で、この度の青刈りはまことに喜ばしい限り。ご指導ご協力をいただいた地元の大先達お二人、みなかみ町役場の皆さま、原塾長はじめ早稲田環境塾の皆さまに深甚の感謝を申し上げたい。

折しもこの4月、みなかみ町は生物多様性地域戦略の一環として『昆虫保護条例』を制定した。上ノ原はその「保護指定地域」になろうとしている。“生物多様性の保全に役だっているブルーベリー”が桃季館の棚に並ぶ日が遠くない!!


(2011年8月9日、清水記)

2011年8月11日木曜日

炎天下の防火帯造りと青刈り 流した汗も生態系サービス

第4回コモンズ村ふじわらは、8月6~8日3日間に渡って真夏の炎天下で青刈りと防火帯作設を実施しました。
 作業内容は、ススキの屋根材以外の利用の具体的用途として果樹等のマルチ材を採取することと同時に野焼きの延焼防止のための防火帯作設を行うものです。
 今回は早稲田環境塾との共同開催プログラムの一環として実施し、総勢22名の参加者が上ノ原に集まり、地元古老3名の方にご指導いただきました。

 初日は、昼食後、車のドアに指を挟むというアクシデントが発生、急遽、病院に向かうことになり、みんなの気勢がそがれましたが、はじめの会を行い、蜂、雷、熱中症等の真夏の作業における注意事項を確認しました。
 その後、地元古老のS.Aさんの指導の下、 鎌の砥ぎ方、青刈りとその結束の仕方を習い、武尊山登山道近くの背丈ほどに伸びたススキに立ち向かいました。
 防火帯設置班3名は、刈り払い機を持ち南側の登山道から茅場に10m幅で刈り払いして、刈った草も束ねていきます。
 皆さん慣れないのと猛烈な暑さの中の作業のため、はじめは戸惑っていましたがそのうち慣れてカマの音も良くなりました。そして結束の仕方も上手になったところで皆さんの疲労度を見て16:00にタイムアップ、この間流した汗は作業着もズボンもびっしょりでずぶぬれ状態。十郎太沢の冷たい清水がありがたく生き返った気持ちでした。
 2日目は、午前中青刈りと防火帯設置の作業予定、鎌砥ぎも自分で出来るようになり、地元古老のH.Hさんの先導の下、昨日と違う作業地に入ろうとした瞬間、H.Hさんが顔の辺りでカマを振りながら飛び出してきました。蜂です。スズメバチが数匹H.Hさんを追いかけてきます。左こめかみあたりを刺されたようです。幸いなことに、腫れてはいるが大事には至らないようです。急遽場所を変ることにして移動。
 昨日、作業前に蜂が飛んでいないか確認したときには姿を見せなかった蜂ですが、地面に巣を作りかけていたようです。H.Hさんに「今までにさされたことがあるか」尋ねると「何度もある」とのこと、その時と今回の症状に変わりはないかと再度聞くと同じとの返事、まずは大丈夫だろうが様子を見ながら作業をすることにしました。 これが参加者だったらたぶん病院に直行しなければならなかったでしょう。
 この日も、暑い日でしたがアクシデントにも負けず皆さん頑張り、昨日の倍の汗をかき、刈り取り量は3倍ぐらい。約3時間の作業で2トントラックと軽四1台分(約2.5t)の青刈りススキを刈り取りました。
 刈り取ったススキは新治の果樹農家の方のブルーベリーとイチゴ畑でマルチとして使っていただくことになっており13時、既に到着していた2tトラックにみんなで積み込みました。
 また、軽四一台分はH.Hさんの畑の堆肥として使っていただけるとのことです。
 防火帯班はこの日も2台の刈り払い機を駆使し、南側のカラマツ林と境を刈り払い上部作業路まで繋げました。
 今回の青刈り、防火帯設置、連日のアクシデントにも負けず、ほぼ予定通りの作業を終えるこができました。 
 皆様が刈り取った青刈りススキは、おいしい果物や野菜を育ててくれるでしょう。
 これもススキ草原の生態系サービス、もちろん皆さんが体験した作業と流した汗、心地よい茅風、眺めた風景もその中にいれてもいいでしょう。茅場から得られるサービスはまだまだあります。今度はススキの穂が揺れて歓迎してくれます。
 参加者の皆様、地元の方々、役場の方、本当にありがとうございました。
                                           (報告者:草野)

2011年7月14日木曜日

上ノ原のカヤが被災地仮設住宅の断熱材に!

2011年7月7日七夕が記念すべき日になりました。昨秋刈り取って、諏訪神社屋根替え用に藤原区に寄贈しストックされていたカヤ366束が、4トン車1台に積みこまれて会津若松に向かいました。目的地は東日本大震災被災者むけ仮設住宅の建設現場です。カヤは日本茅葺き文化協会を通じて、国産スギ材による板倉構法で仮設住宅建設中の佐久間建設工業に寄贈され、7月末までに住宅20戸の屋根用断熱材として活用されることになったのです。


建設中の仮設住宅
カヤを使った断熱材


6月11日開催された全国草原再生ネットワークでご面識を得た茅葺文化協会の上野弥智代理事から、「断熱材用のカヤが足りなくなって困っているが、森林塾青水で何とか融通していただけませんか」とのお電話をいただいたのは6月14日のことでした。先ずは、旅先の徳島から町田社長に電話でカヤの保管場所を確認。帰宅後、18日~20日の3日間で地元藤原に出向き、区長、諏訪神社屋根替え実行委員会や氏子総代、みなかみ町役場関係各位に事の次第を報告、被災地のために供出することにつき気持ちよくご了解をいただきました。
7月7日は、建設予定地・会津若松より4トン車を駆って屈強の会津男児2名が来られ、上野理事ならびに町役場の木村マネージャー、藤原区代表の吉野一幸さん、中島真人さんが立ち会い、小生も含め7名で積み込み作業をしました。蒸し暑い日中でしたが、意気に感じてやっていたので気持ちよく作業を終えることが出来ました。

①倉庫の中の茅ボッチ
②トラックに積み込まれた状態

③積み込み作業

④作業終了後の記念撮影

これで、上ノ原のカヤの用途がまた一つ増えることになりました。これまでの文化財建造物の屋根材、この夏に予定している野菜・果物のマルチ材と肥料。そして、このたびの断熱材。ご縁を取り持っていただいた草原再生ネットワーク、お声掛けをいただいた茅葺文化協会・上野理事、快くご理解ご協力いただいた藤原区ならびにみなかみ町役場の皆さまのお陰さまのこと。この場をかりて、厚く感謝申上げたい。
そして、藤原区の皆さまへ:10月には、今回供出いただいた366束以上を必ずお返しいたします!
2011.7.8(清水)

2011年6月6日月曜日

第23回「森は海の恋人」植樹祭に思う

―大川「森里海連環」と利根川「流域コモンズ」―
6月4日。東日本大震災の被災地、気仙沼・西舞根の水山養殖場に足を運んだ。畠山重篤さんの牡蠣養殖筏70基の全てが壊滅した現場だ。まだまだ山積する瓦礫の山に言葉を失う。

難を逃れた杉山の間伐材で作った養殖筏1基が浮かべられていたのが唯一の光明だった。
養殖場に続く標高25㍍の高台にある畠山邸に向かう。疲れも見せず笑顔で迎えてくれた奥さまに、11年ぶりの再会のご挨拶。舞根集落は52戸、うち44戸が津波で家を流された。でも、みんな「舞根湾の見える小高い所に移りたい。海で生きる元の暮らしに戻りたい」と仰っている由。「海は怖いけど怨んではいない。海で生きていくしかない。何年かかっても必ず再生します」。キーパーソン畠山さんが、海に生きてきた集落の人々の気持ちを要約してくれた。

翌5日。室根村の植樹祭の会場・矢越山へ。気仙沼湾や舞根湾を潤す大川の水源だ。今年で23回を数える「森は海の恋人」植樹祭。鎮魂と復興を祈願して、全国から志を同じくする老若男女1200人が集った。

今年はとても無理と諦めていた畠山さんを、水源地・室根集落の皆さんが「準備は全てやるので、今年は客人として是非来てくれ」と説得されて開催となった次第。正に、上下流交流の絆の証であり、森里海連環そのものと言えよう。畠山さんの開会挨拶

に曰く「今年は、植樹祭終了後の交流会に海の幸を振る舞えなくて申し訳ない。来年は、必ず持ってきます」と。種牡蠣から2年かかるカキは無理としても、ホタテやホヤ(海のマンゴ!)は大丈夫。心にしみる言葉だった。
植樹作業を終えて、15年前(第7回)にナナカマドやホウノキの苗木を植えた場所に足を運んでみた。想像以上の成育ぶりで、背の低い文字通り「ひこばえの森」が、わずか15年でこんもりとした「柞の森」になっていた。太陽と雨水と大地、巧まざる自然の力の偉大さを実感した。
大川の水源地は岩手県一関市室根村、河口は東に隣接する宮城県気仙沼市。全長25㎞の短い流域だ。一方、利根川の水源は群馬県みなかみ町藤原集落、河口は千葉県銚子市。全長322㎞で流域には200をこえる市町村がある。でも、水源や水の恩恵に与っている点や流域のみんなで支えるべき環境資源であることに違いはない。「森里海連環」も「流域コモンズ」も、自然の恵み(生態系サービス)に感謝し大切にしようという実践理念『飲水思源』を共有する。

森は海を海は森を恋いながら 悠久よりの愛紡ぎゆく    熊谷龍子

2011.6.6(清水)

2011年5月19日木曜日

キノコの山に!

森林塾青水の第2回コモンズ村「ふじわら」は“キノコの種菌と青木沢峠フットパス歩き”でした。
5月14日 まずまずの天候の中、上ノ原のミズナラ二次林内の作業に14名が参加しました。
 このミズナラ林は、入会山薪炭林として定期的に繰り返し伐採されてきたものですが利用しなくなって40数年、二次林としては高齢、このままでは萌芽力が衰えてしまいますしナラ枯れ病被害も心配です。森の若返りを図るための利用のひとつとして、昨年の秋、小面積群状皆伐(面積100㎡、伐採したミズナラ等は30数本)してぼう芽更新をさせることにしました。
伐採木は葉がついたまま乾燥させたのでおそらく生木の40%以下の乾燥状態になっています。

今回はこれを玉切りしてキノコの種コマを打ち込む作業です。
 作業は地元のN.Nさんにご指導をいただきながら進めました。玉切りは3台のチェンソーを使い、女性や・子供も持ち運びができるように長さ60cmのホダ木にしました これに、ナメコ、シイタケ、クリタケ、ヒラタケの種コマを電動ドリルと専用穿孔器で穴を空け、種コマを打ち込んで行きます。  打ち込んだホダ木はナメコが260本に種ゴマ5000個、シイタケが20本に500個、クリタケが16本と根株に500個、ヒラタケはミズナラでは発生が難しいということでサクラのホダ木6本に200個程度、合計ホダ木296本と1根株に6200個の菌種を植え付けました。
当日は3時頃雨と雷がありましたが皆さん初体験というのに手際よくやっていただき、打ち込んだホダ木をバケツリレー方式で樹木の下に運び伏せ込みするまでの作業でした。
この作業の様子は一部始終をM.Nさんがビデオに撮ってくれています。
 担当者としては翌日までかかるだろうと思っていましたが初日だけで無事終了しました。
キノコが収穫できるのは早くて来年の秋、そして再来年の春、秋には大量のキノコが出るでしょう。心配は遠慮のないキノコ狩りの連中ですが楽しみにしていましょう。特に根株に打ち込んだクリタケは楽しみです。
 久しぶりのハードな仕事で心地よい汗をかきました。
 上ノ原のミズナラ林の利用についてはキノコ生産のほか今後、薪に利用することを考えています。今回は試行的な小面積皆伐でしたが今後は択伐を採り入れるなど林分全体の施業方法を計画して実施することになります。


2011年4月26日火曜日

野焼きのあと先-大震災に文明のあり方を思う-

<野を焼いて心の焔なお鎮まらず>   再開して8回目になる野焼き。今年は、東日本大震災の「鎮魂と復興の祈り」を込めて行った。当初予定の4月16日午前10位時半、それまでの青空が急転雨になってしまった。涙雨だったのだろうか。翌17日は、参加した老若男女81名の皆の思いかなってか絶好の野焼き日和となった。

















さて、此度の大震災のこと。想定外だったと言う東電・政府・関係者に対し、想定されていたという人も。大地震と津波だけで原発事故がなかったら、これほどまでの事態にはならなかった。
では、原発は何故必要になったのか。人類がはびこりすぎたからではないのか。快適・便利を追い求め、余剰価値を追求し続けてきた。緑の大地はみるみる失われ、人口は激増し、石油、石炭、水力だけでは賄いきれなくなった。つまり、地球という生命体の環境容量を超えて人類が膨張し過ぎてしまった。そこで将来をみこして、つまり、自然を収奪し人類だけが繁栄し続けるという前提のもとに、CO2を出さない原発に頼った。そして今、人が作った文明の利器を人が制御出来ない事態に直面している。
此度の事故は天災であり、人災でもある。人類は今、有史以来の文明のあり方を問われている。つまり、環境容量を超えない暮らしのあり方につき再考を促されている。人間以外にも失われた数えきれないほどの生き物たちの命と棲みかをも回復し、共存できる道。暮らしの価値基準を見直し、GNHを国是とするブータンや環境立国を旨とするコスタリカなどの“文明先進国”に米欧日の“経済先進国”が学ぶ時ではないか。
小生が社会人になった1964年、既に3種の神器が揃っていて暮らしは充分に便利・快適であった。それ以降はすべて『余剰』であり、その結果『環境容量』を超えてしまった。本質的問題は、人類が環境容量の範囲内で如何にして持続的な暮らしの有り様を再構築するかだ。それが後世、人類が善玉キーストーン種として他の多くの生き物仲間たちから尊敬される存在になり得るか否かを左右する。





<世界中みんなはらから桜咲く>  汚染された野菜や魚の存在について思うこと。消費者の食の安全をどう確保するか、そして農業や漁業現場の再生対策は勿論急がなければならない。だがしかし、津波に破壊された生態系や、汚染され打ち捨てられる破目になった野菜や魚介類の命が不憫だ可哀そうだ、と報じたり言ったりするメデイアも役人も学者も宗教者もいないのは一体どうしたことだろうか? 我が国が、生き物の命のつながりの大切さを考える国際会議・COP10を主催したのは昨年10月のこと。今も昔も洋の東西も問わず、人類が毎日食卓にのせて頂いているのは、それら自然の生き物たちの命だというのに・・・。
食事の度に、その命を「いただきます」と言う。そのたびに、限りある自然の生き物の命、資源量、環境容量に思いをいたしたい。そこから、あるべき暮らしの姿、文明の有りようが見えてくる。

〈末黒野に涅槃の境地思ひ見ゆ> 


 『涅槃』とは火が消えた状態。『煩悩』即ち、慾やむさぼり、おごり、怒りがなくなった状態のこと。多少の慾はもってもいいが『小慾知足』たるべしという、2500年前からの釈迦の教えはどこにいってしまったのか。文明のあり方が再び問われている今こそ、身の丈に合った暮らしの有りようを再構築しなければならない。言うまでもなく「身の丈」とは言うまでもなく、地球の身の丈、つまり地球という生命体の環境容量のことである。

<「傲慢」の世紀の果ての枯野かな> 1999年12月。12年前の拙句をもって筆をおきたい。

チェルノブイル原発事故から25年目の今日、2011年4月26日記す           (清水)

2011年4月19日火曜日

2011年度の野焼き顛末記

鎮魂と復興の火入れ
2011年度の青水オープニングイベントである8回目の野焼きが4月17日実施された。今年は3月11日に発生した東日本大震災と福島第1原発事故の「被災者への鎮魂と一日も早い復興を祈る」として臨んだ。ちなみに、みなかみ町そして地元藤原にもいわき市等から30数名の被災者の方が避難しておられます。
除雪隊の奮闘
2月の打合せの折、今年の野焼きは3ブロックのうち管理道下のCは休閑地としてAとBとするが特に十郎太沢南側管理道上のBを重点的に実施することを申し合わせて除雪をやっていただいた(野焼き実施図)。

ところが3月になって何度か積雪があり除雪開始時でも120~180cmもあり例年より50~100cmも多い状況、2名の除雪隊のご奮闘もあって約1週間の乾燥期間を含めてどうにか間に合いました。前日、現地の状態を確認し実施可能と判断して準備にかかりました。それにしても積雪の多さと除雪の苦労がしのばれる雪山の高さである(写真①)が安全・安心の野焼きを保証する雪の壁である。

自然には勝てない順延やむなし 
前日はもちろん当日も天気上々で実施を疑うこともなく行った準備作業は汗をかくほど。しかし、参加者が集まる直前の10時半頃から青空はにわかに雨雲に覆われ、ついに冷たい雨も降りだし気温4度、湿度70%となった。試しに着火しても燃えない、延期を覚悟して参加者の到着を待ちました。 11時30分、地元・役場・森林管理署・青水の4者協議で明日に延期と決定。 この日はオープニングセレモニーと十二様に入山のお許しと今年一年の作業の安全を祈って山の口開き神事を行い(写真②)、1時間ほどの除伐を行って、早目に宿に帰ることとしました。その後、塾で契約予定の古民家を視察するなどして過ごした。


あきらめないぞと野焼き再挑戦
 この日は朝から快晴。現地を確認すると茅は濡れているが適当に風もあり数時間をかければ十分に乾燥して実行可能と判断。むしろ延焼の心配は吹き飛び安全作業が出来ると確信し準備に。 9時半に4者協議、実行可能だが出来る限り乾燥時間を持つこととし、列車の時間から逆算して13時ごろ着火、14時前に鎮火とすれば10時から実施方法の説明や野焼き講習会、11時半昼食の段取りと決定。 10時半頃に野焼き講習会等を終了し、その後の時間をどう過ごすか思案していたところ親男さんからエクスカーションを提案していただきほとんど全員が参加して有意義な時間となりました。 燃え上れ鎮魂と復興の炎 13時、茅が十分乾燥していることを確認。この時の気象条件は、気温15度、湿度30%、風力4~5m、風向南、参加者はA,Bの2班に別れて野焼き開始。この日の参加者は35名、地元及び役場ほかの応援部隊12名、見学者・写真撮影など12名、それに消防団8名の方が火防巡視で立ち寄っていただき総勢67名が上ノ原で鎮魂と復興の野焼きの炎に願いを託しました。 13時10分 A班が着火し、続いてB班も着火、白い雪と青空に灰色の煙とオレンジの炎が上がり、パチパチと勢い良く燃え始めた。 延焼の心配ないこともあり本来は斜面上側から着火すべきであるが今回は下側からの着火も可としたことから勢い良く炎が上がる。火消し棒やジェットシュータ、スコップは用なしであった。(写真③)

30分後には火と煙と茅原の燃え跡が広がり雪原と青空をバックにした上ノ原の野焼きらしい光景がよみがえった。まさに、「雪間を焼く」である(写真④)。

約1時間が経った13時50分ごろ予定した箇所を焼き尽くしたことから、広場に引き上げ異常ないことを確認。13時55分に鎮火宣言。  その後、終わりの会を行った後、無事終了の印である黄、青の班旗が赤の本部旗の下に立てられ雪山に全員が集まり集合写真を撮って解散した(写真⑤)。

暮らしの中の風景の復活

今、東北では今回の大震災や原発事故では家族や暮らしが分断され当たり前に営々と続けてきた春の農作業も出来ない状態が続いています。そこはこれまでの人々が暮らしの中で築き上げてきた自然・文化も消滅したかのような変わり果てた風景になっています。上ノ原の人々の暮らしの中にあった風景である野焼きを復活させて8年目、無事に所期の目的を達成したことに安堵するとともに続けることが出来たことの幸せと支えてくれた人々への感謝を痛感する二日間でありました。被災者の皆様の暮らしの安寧が一日も早く訪れることを心からお祈り申し上げます。皆さま有難うございました。                       文責 塾頭 草野 洋
上毛新聞掲載記事