2011年7月14日木曜日

上ノ原のカヤが被災地仮設住宅の断熱材に!

2011年7月7日七夕が記念すべき日になりました。昨秋刈り取って、諏訪神社屋根替え用に藤原区に寄贈しストックされていたカヤ366束が、4トン車1台に積みこまれて会津若松に向かいました。目的地は東日本大震災被災者むけ仮設住宅の建設現場です。カヤは日本茅葺き文化協会を通じて、国産スギ材による板倉構法で仮設住宅建設中の佐久間建設工業に寄贈され、7月末までに住宅20戸の屋根用断熱材として活用されることになったのです。


建設中の仮設住宅
カヤを使った断熱材


6月11日開催された全国草原再生ネットワークでご面識を得た茅葺文化協会の上野弥智代理事から、「断熱材用のカヤが足りなくなって困っているが、森林塾青水で何とか融通していただけませんか」とのお電話をいただいたのは6月14日のことでした。先ずは、旅先の徳島から町田社長に電話でカヤの保管場所を確認。帰宅後、18日~20日の3日間で地元藤原に出向き、区長、諏訪神社屋根替え実行委員会や氏子総代、みなかみ町役場関係各位に事の次第を報告、被災地のために供出することにつき気持ちよくご了解をいただきました。
7月7日は、建設予定地・会津若松より4トン車を駆って屈強の会津男児2名が来られ、上野理事ならびに町役場の木村マネージャー、藤原区代表の吉野一幸さん、中島真人さんが立ち会い、小生も含め7名で積み込み作業をしました。蒸し暑い日中でしたが、意気に感じてやっていたので気持ちよく作業を終えることが出来ました。

①倉庫の中の茅ボッチ
②トラックに積み込まれた状態

③積み込み作業

④作業終了後の記念撮影

これで、上ノ原のカヤの用途がまた一つ増えることになりました。これまでの文化財建造物の屋根材、この夏に予定している野菜・果物のマルチ材と肥料。そして、このたびの断熱材。ご縁を取り持っていただいた草原再生ネットワーク、お声掛けをいただいた茅葺文化協会・上野理事、快くご理解ご協力いただいた藤原区ならびにみなかみ町役場の皆さまのお陰さまのこと。この場をかりて、厚く感謝申上げたい。
そして、藤原区の皆さまへ:10月には、今回供出いただいた366束以上を必ずお返しいたします!
2011.7.8(清水)

2011年6月6日月曜日

第23回「森は海の恋人」植樹祭に思う

―大川「森里海連環」と利根川「流域コモンズ」―
6月4日。東日本大震災の被災地、気仙沼・西舞根の水山養殖場に足を運んだ。畠山重篤さんの牡蠣養殖筏70基の全てが壊滅した現場だ。まだまだ山積する瓦礫の山に言葉を失う。

難を逃れた杉山の間伐材で作った養殖筏1基が浮かべられていたのが唯一の光明だった。
養殖場に続く標高25㍍の高台にある畠山邸に向かう。疲れも見せず笑顔で迎えてくれた奥さまに、11年ぶりの再会のご挨拶。舞根集落は52戸、うち44戸が津波で家を流された。でも、みんな「舞根湾の見える小高い所に移りたい。海で生きる元の暮らしに戻りたい」と仰っている由。「海は怖いけど怨んではいない。海で生きていくしかない。何年かかっても必ず再生します」。キーパーソン畠山さんが、海に生きてきた集落の人々の気持ちを要約してくれた。

翌5日。室根村の植樹祭の会場・矢越山へ。気仙沼湾や舞根湾を潤す大川の水源だ。今年で23回を数える「森は海の恋人」植樹祭。鎮魂と復興を祈願して、全国から志を同じくする老若男女1200人が集った。

今年はとても無理と諦めていた畠山さんを、水源地・室根集落の皆さんが「準備は全てやるので、今年は客人として是非来てくれ」と説得されて開催となった次第。正に、上下流交流の絆の証であり、森里海連環そのものと言えよう。畠山さんの開会挨拶

に曰く「今年は、植樹祭終了後の交流会に海の幸を振る舞えなくて申し訳ない。来年は、必ず持ってきます」と。種牡蠣から2年かかるカキは無理としても、ホタテやホヤ(海のマンゴ!)は大丈夫。心にしみる言葉だった。
植樹作業を終えて、15年前(第7回)にナナカマドやホウノキの苗木を植えた場所に足を運んでみた。想像以上の成育ぶりで、背の低い文字通り「ひこばえの森」が、わずか15年でこんもりとした「柞の森」になっていた。太陽と雨水と大地、巧まざる自然の力の偉大さを実感した。
大川の水源地は岩手県一関市室根村、河口は東に隣接する宮城県気仙沼市。全長25㎞の短い流域だ。一方、利根川の水源は群馬県みなかみ町藤原集落、河口は千葉県銚子市。全長322㎞で流域には200をこえる市町村がある。でも、水源や水の恩恵に与っている点や流域のみんなで支えるべき環境資源であることに違いはない。「森里海連環」も「流域コモンズ」も、自然の恵み(生態系サービス)に感謝し大切にしようという実践理念『飲水思源』を共有する。

森は海を海は森を恋いながら 悠久よりの愛紡ぎゆく    熊谷龍子

2011.6.6(清水)

2011年5月19日木曜日

キノコの山に!

森林塾青水の第2回コモンズ村「ふじわら」は“キノコの種菌と青木沢峠フットパス歩き”でした。
5月14日 まずまずの天候の中、上ノ原のミズナラ二次林内の作業に14名が参加しました。
 このミズナラ林は、入会山薪炭林として定期的に繰り返し伐採されてきたものですが利用しなくなって40数年、二次林としては高齢、このままでは萌芽力が衰えてしまいますしナラ枯れ病被害も心配です。森の若返りを図るための利用のひとつとして、昨年の秋、小面積群状皆伐(面積100㎡、伐採したミズナラ等は30数本)してぼう芽更新をさせることにしました。
伐採木は葉がついたまま乾燥させたのでおそらく生木の40%以下の乾燥状態になっています。

今回はこれを玉切りしてキノコの種コマを打ち込む作業です。
 作業は地元のN.Nさんにご指導をいただきながら進めました。玉切りは3台のチェンソーを使い、女性や・子供も持ち運びができるように長さ60cmのホダ木にしました これに、ナメコ、シイタケ、クリタケ、ヒラタケの種コマを電動ドリルと専用穿孔器で穴を空け、種コマを打ち込んで行きます。  打ち込んだホダ木はナメコが260本に種ゴマ5000個、シイタケが20本に500個、クリタケが16本と根株に500個、ヒラタケはミズナラでは発生が難しいということでサクラのホダ木6本に200個程度、合計ホダ木296本と1根株に6200個の菌種を植え付けました。
当日は3時頃雨と雷がありましたが皆さん初体験というのに手際よくやっていただき、打ち込んだホダ木をバケツリレー方式で樹木の下に運び伏せ込みするまでの作業でした。
この作業の様子は一部始終をM.Nさんがビデオに撮ってくれています。
 担当者としては翌日までかかるだろうと思っていましたが初日だけで無事終了しました。
キノコが収穫できるのは早くて来年の秋、そして再来年の春、秋には大量のキノコが出るでしょう。心配は遠慮のないキノコ狩りの連中ですが楽しみにしていましょう。特に根株に打ち込んだクリタケは楽しみです。
 久しぶりのハードな仕事で心地よい汗をかきました。
 上ノ原のミズナラ林の利用についてはキノコ生産のほか今後、薪に利用することを考えています。今回は試行的な小面積皆伐でしたが今後は択伐を採り入れるなど林分全体の施業方法を計画して実施することになります。


2011年4月26日火曜日

野焼きのあと先-大震災に文明のあり方を思う-

<野を焼いて心の焔なお鎮まらず>   再開して8回目になる野焼き。今年は、東日本大震災の「鎮魂と復興の祈り」を込めて行った。当初予定の4月16日午前10位時半、それまでの青空が急転雨になってしまった。涙雨だったのだろうか。翌17日は、参加した老若男女81名の皆の思いかなってか絶好の野焼き日和となった。

















さて、此度の大震災のこと。想定外だったと言う東電・政府・関係者に対し、想定されていたという人も。大地震と津波だけで原発事故がなかったら、これほどまでの事態にはならなかった。
では、原発は何故必要になったのか。人類がはびこりすぎたからではないのか。快適・便利を追い求め、余剰価値を追求し続けてきた。緑の大地はみるみる失われ、人口は激増し、石油、石炭、水力だけでは賄いきれなくなった。つまり、地球という生命体の環境容量を超えて人類が膨張し過ぎてしまった。そこで将来をみこして、つまり、自然を収奪し人類だけが繁栄し続けるという前提のもとに、CO2を出さない原発に頼った。そして今、人が作った文明の利器を人が制御出来ない事態に直面している。
此度の事故は天災であり、人災でもある。人類は今、有史以来の文明のあり方を問われている。つまり、環境容量を超えない暮らしのあり方につき再考を促されている。人間以外にも失われた数えきれないほどの生き物たちの命と棲みかをも回復し、共存できる道。暮らしの価値基準を見直し、GNHを国是とするブータンや環境立国を旨とするコスタリカなどの“文明先進国”に米欧日の“経済先進国”が学ぶ時ではないか。
小生が社会人になった1964年、既に3種の神器が揃っていて暮らしは充分に便利・快適であった。それ以降はすべて『余剰』であり、その結果『環境容量』を超えてしまった。本質的問題は、人類が環境容量の範囲内で如何にして持続的な暮らしの有り様を再構築するかだ。それが後世、人類が善玉キーストーン種として他の多くの生き物仲間たちから尊敬される存在になり得るか否かを左右する。





<世界中みんなはらから桜咲く>  汚染された野菜や魚の存在について思うこと。消費者の食の安全をどう確保するか、そして農業や漁業現場の再生対策は勿論急がなければならない。だがしかし、津波に破壊された生態系や、汚染され打ち捨てられる破目になった野菜や魚介類の命が不憫だ可哀そうだ、と報じたり言ったりするメデイアも役人も学者も宗教者もいないのは一体どうしたことだろうか? 我が国が、生き物の命のつながりの大切さを考える国際会議・COP10を主催したのは昨年10月のこと。今も昔も洋の東西も問わず、人類が毎日食卓にのせて頂いているのは、それら自然の生き物たちの命だというのに・・・。
食事の度に、その命を「いただきます」と言う。そのたびに、限りある自然の生き物の命、資源量、環境容量に思いをいたしたい。そこから、あるべき暮らしの姿、文明の有りようが見えてくる。

〈末黒野に涅槃の境地思ひ見ゆ> 


 『涅槃』とは火が消えた状態。『煩悩』即ち、慾やむさぼり、おごり、怒りがなくなった状態のこと。多少の慾はもってもいいが『小慾知足』たるべしという、2500年前からの釈迦の教えはどこにいってしまったのか。文明のあり方が再び問われている今こそ、身の丈に合った暮らしの有りようを再構築しなければならない。言うまでもなく「身の丈」とは言うまでもなく、地球の身の丈、つまり地球という生命体の環境容量のことである。

<「傲慢」の世紀の果ての枯野かな> 1999年12月。12年前の拙句をもって筆をおきたい。

チェルノブイル原発事故から25年目の今日、2011年4月26日記す           (清水)

2011年4月19日火曜日

2011年度の野焼き顛末記

鎮魂と復興の火入れ
2011年度の青水オープニングイベントである8回目の野焼きが4月17日実施された。今年は3月11日に発生した東日本大震災と福島第1原発事故の「被災者への鎮魂と一日も早い復興を祈る」として臨んだ。ちなみに、みなかみ町そして地元藤原にもいわき市等から30数名の被災者の方が避難しておられます。
除雪隊の奮闘
2月の打合せの折、今年の野焼きは3ブロックのうち管理道下のCは休閑地としてAとBとするが特に十郎太沢南側管理道上のBを重点的に実施することを申し合わせて除雪をやっていただいた(野焼き実施図)。

ところが3月になって何度か積雪があり除雪開始時でも120~180cmもあり例年より50~100cmも多い状況、2名の除雪隊のご奮闘もあって約1週間の乾燥期間を含めてどうにか間に合いました。前日、現地の状態を確認し実施可能と判断して準備にかかりました。それにしても積雪の多さと除雪の苦労がしのばれる雪山の高さである(写真①)が安全・安心の野焼きを保証する雪の壁である。

自然には勝てない順延やむなし 
前日はもちろん当日も天気上々で実施を疑うこともなく行った準備作業は汗をかくほど。しかし、参加者が集まる直前の10時半頃から青空はにわかに雨雲に覆われ、ついに冷たい雨も降りだし気温4度、湿度70%となった。試しに着火しても燃えない、延期を覚悟して参加者の到着を待ちました。 11時30分、地元・役場・森林管理署・青水の4者協議で明日に延期と決定。 この日はオープニングセレモニーと十二様に入山のお許しと今年一年の作業の安全を祈って山の口開き神事を行い(写真②)、1時間ほどの除伐を行って、早目に宿に帰ることとしました。その後、塾で契約予定の古民家を視察するなどして過ごした。


あきらめないぞと野焼き再挑戦
 この日は朝から快晴。現地を確認すると茅は濡れているが適当に風もあり数時間をかければ十分に乾燥して実行可能と判断。むしろ延焼の心配は吹き飛び安全作業が出来ると確信し準備に。 9時半に4者協議、実行可能だが出来る限り乾燥時間を持つこととし、列車の時間から逆算して13時ごろ着火、14時前に鎮火とすれば10時から実施方法の説明や野焼き講習会、11時半昼食の段取りと決定。 10時半頃に野焼き講習会等を終了し、その後の時間をどう過ごすか思案していたところ親男さんからエクスカーションを提案していただきほとんど全員が参加して有意義な時間となりました。 燃え上れ鎮魂と復興の炎 13時、茅が十分乾燥していることを確認。この時の気象条件は、気温15度、湿度30%、風力4~5m、風向南、参加者はA,Bの2班に別れて野焼き開始。この日の参加者は35名、地元及び役場ほかの応援部隊12名、見学者・写真撮影など12名、それに消防団8名の方が火防巡視で立ち寄っていただき総勢67名が上ノ原で鎮魂と復興の野焼きの炎に願いを託しました。 13時10分 A班が着火し、続いてB班も着火、白い雪と青空に灰色の煙とオレンジの炎が上がり、パチパチと勢い良く燃え始めた。 延焼の心配ないこともあり本来は斜面上側から着火すべきであるが今回は下側からの着火も可としたことから勢い良く炎が上がる。火消し棒やジェットシュータ、スコップは用なしであった。(写真③)

30分後には火と煙と茅原の燃え跡が広がり雪原と青空をバックにした上ノ原の野焼きらしい光景がよみがえった。まさに、「雪間を焼く」である(写真④)。

約1時間が経った13時50分ごろ予定した箇所を焼き尽くしたことから、広場に引き上げ異常ないことを確認。13時55分に鎮火宣言。  その後、終わりの会を行った後、無事終了の印である黄、青の班旗が赤の本部旗の下に立てられ雪山に全員が集まり集合写真を撮って解散した(写真⑤)。

暮らしの中の風景の復活

今、東北では今回の大震災や原発事故では家族や暮らしが分断され当たり前に営々と続けてきた春の農作業も出来ない状態が続いています。そこはこれまでの人々が暮らしの中で築き上げてきた自然・文化も消滅したかのような変わり果てた風景になっています。上ノ原の人々の暮らしの中にあった風景である野焼きを復活させて8年目、無事に所期の目的を達成したことに安堵するとともに続けることが出来たことの幸せと支えてくれた人々への感謝を痛感する二日間でありました。被災者の皆様の暮らしの安寧が一日も早く訪れることを心からお祈り申し上げます。皆さま有難うございました。                       文責 塾頭 草野 洋
上毛新聞掲載記事